こんばんわ。3月11日・日曜日の書き込みです。
今日は今季初のねこ戦 at ほっともっと。
はい、負けました。
それについてはやんスポでやるとして、まずは一言 やっぱ神戸は遠いですw
【れきしヒストリア4:川越への鉄道後篇】
日曜はれきしヒストリア、先月の10日にやって以来となります(苦笑)
川越全体の鉄道の歴史の後篇です。
<川越への鉄道 後篇>
江戸と川越を結ぶ新河岸川の舟運で支えられた街だった川越。
川越鉄道が川越~国分寺間を開業し、国分寺経由で東京と鉄路を結ばれたことによってもともと舟運で運ばれてた貨物がシフトし舟運に対してダメージが出てきだした、、、ってところが前回まででした。
川越鉄道が甲武鉄道(現・中央線)に向けて川越から南に敷かれたのに対して、東京から北に向けて伸びていた日本鉄道(現・東北線 高崎線)の大宮経由でのルートで1902年(明治35年)大宮~川越間に川越馬車鉄道が開通、それを母体に川越電気鉄道が電車として1906年(明治39年)に開業し、新河岸川の舟運に加え川越(川越久保町駅)から東京への鉄路のルートが2方向可能になりました。もともとあった国分寺経由でも大宮経由でも当時、乗り継ぎ時間を含め2時間近くの所要だったそうです。
この二つの鉄道は川越から見ると国分寺、大宮と東京に行くには遠回りなルートですが、いよいよ東京と直接結ぶ鉄道が1914年(大正3年)誕生します。
川越にとっての3つ目の鉄道、東上鉄道(現・東武東上線)です。東上鉄道は池袋~田面沢(現在の川越市~霞ヶ関間にある入間川橋梁の東詰)間33.6kmを開業。川越西町駅(現・川越)と川越町駅(現・川越市)の2駅が設置されました。
東京と川越を一直線に結ぶこのルートは池袋~川越町間を最速列車で61分で結び今までの約半分の時間で東京と結ばれることになります。
この東上鉄道の誕生が決定打となり新河岸川舟運の舟運業者が次々と廃業していくことになり衰退への道をたどることになりました。
川越鉄道と川越電気鉄道が合併し間に社名の変遷がありますが旧・西武鉄道と改称。
(現在の西武鉄道の社名は武蔵野鉄道が旧・西武鉄道を吸収合併する形となって新たに西武農業鉄道を経て西武鉄道となります)
西武鉄道2方向と東上鉄道とで3方向の鉄路が走る川越に最後に鉄道を敷いたのは1940年(昭和15年)大宮~高麗川間で開通した国鉄川越線です。
東上線の川越西町駅に接する形に駅を設置し開業と同時に川越西町駅は川越に、今まで川越を名乗っていた西武線の川越は現駅名の本川越駅に改称され今にいたっています。
この国鉄線の開通によって同じ大宮~川越間を走っていた西武大宮線(旧川越電気鉄道)は致命的となり国鉄川越線に引き継ぐ形で休止を経て廃止となりました。
国鉄に比べると輸送量の小さい路面電車であったのが厳しかったのかもしれません。
その国鉄川越線、長らく首都圏では数少ない気動車の走るローカル線でしたが1985年(昭和60年)に電化、埼京線経由で池袋、新宿、渋谷等に直通されることとなり、東上線と対抗できる存在まできています。
このようにして新河岸川の舟運に変わり、川越はJR、東武、西武の3つの鉄道が乗り入れるジャンクションとして栄えることになったのでした。
参考)西武沿線の不思議と謎(実業之日本社) 地形図でたどる鉄道史 東日本編(JTB)
次回はどこの歴史を見てみようか考えてちうです。
【やんスポ】
<日曜の池添さん・結果編 中京>
2R ショウナンパーシア 17着
10R メイショウヒサカタ 1着
11R ヤマカツエース 4着
12R アドマイヤリアル 4着
3連覇がかかったヤマカツエースの金鯱賞でしたが、残念ながら4着という結果でした。
<今日のねこさん>
L 2―6 Bs
森くんは7回にDH代打で出場、9回にデッドボールのランナーを1塁にライトへのタイムリー。
2打数1安打1打点でした。
それにしてもオリックスにほんと勝てません。
ま、ちょうど一年前は甲子園での勝ったと思ったら直人さんのサヨナラエラーだったんで、それに比べたらまだましな負け方かなぁと言い聞かせていますw
【鉄ネタ+】
正面から見たらウォーズマンにしか見えないw
【今日は何の日】
3月11日 パンダ発見の日
1869年(明治2年)3月11日 中国四川省でフランス人神父アルマン・ダヴィド氏が白と黒の奇妙な熊の毛皮を見せられたことが西洋諸国でジャイアントパンダが知られるきっかけになったと言われています。 ただ、このパンダ発見の日とするのは日本だけで学術的には正確性は一切ないとのことだそうです。
【3/11 気になったyahoo記事】
武蔵小杉のイメージが強くて便利でいい街ってイメージがあるけど、こういう部分も存在するんやなと、、、
【今日のほぼ日 日々の言葉】
大盛況だった「市場で朝めし。」のすべての徴収を終えて、
差し入れのアイスを食べました。そのとき市の観光課の畠山幹司さんが
ふいにこう言ったのです。「・・・・オレはこんなにうまいアイスを食ったことがねえ」
私はこの日、気仙沼のみんなと新しい観光の希望を見た気がしました。
仕事でも何でもいいから、「この街の役に立ちたい」と、強く思いました。
―『沼のハナヨメ。』より
東日本大震災から7年。
今なお仮設で生活されてる方々が一日でも早く生活再建され、被災された街が一日でも早く復興されることを願っています。